ホーム > らんちゅう小説

らんちゅう小説

第一楽章

 クリスマスも過ぎ、暮れも押し迫った夜、ある店の前で寒さに震えながら、天使のように美しい十四歳の少年が立ち尽くしている。 かれこれ三時間が過ぎようとした時、その口からつぶやきが漏れた。「もうこれで三日目だ。」彼は、ズボンのポケットの中で千円札五枚をぎゅっと握り締めた。と、その時、一台の車が店の前でブレーキを踏んだ。

 青白かった彼の頬がみるみる赤みを取り戻してゆく。車から降りて来たのは、まだ二十歳だというのに三十顔の無精ひげをはやした大男である。実はその大男、名古屋へらんちゅうの買い付けにいっていたのである。大男は大きな袋を三つ抱えて店のシャッターを開け、店内に入った。袋の中には、目のくらむほど美しいらんちゅうが百匹ほど入っていた。
少年は目を輝かせながらたずねた。
「一匹いくら?」
大男はしばらく考えて、「今日ならどれでも三千五百円でいいよ。」と答えた。

 少年は小躍りした。三日間待った甲斐があった。彼は、百匹のらんちゅうを独り占め出来た様な、とても幸福な気持ちになった。よし、一番良いのを買って帰ろう。少年は大男があらかじめ用意してあった数個の大きな水槽に次々とらんちゅうを移していく間に、らんちゅうを選んでいた。だが、しばらく立って少年は百匹もの中から一番良いものを選ぶ能力が自分には無い事に気付いた。そこで「おじちゃん、一番いいのを選んでよ。」と、お願いした。ところが大男は「自分の気に入ったのをもって帰りよ。」と、選んではくれなかった。

 それからどれぐらい時間がたっただろう。少年は、時間は気になるし、良いらんちゅうは分からないし、袋小路に入ってしまった。午前零時を過ぎた頃、大男が言った。「また明日おいでよ。」少年は渋々、家路に付く事になった。

 翌日、少年は朝九時から開店を待った。十時になって大男がやって来て、店内に入ると、見事にらんちゅうがランク別に分けられてあった。その値札を見て少年は愕然となった。八千円、七千円、六千円、五千円、三千五百円。昨夜なら三千五百円で買えたものが、八千円もするのだ。少年は持ち前の粘りで交渉したが、ついに追い返されてしまった。

 しばらくの間、少年は、毎日のようにらんちゅうを眺めに店に寄っては、心に言い聞かせていた。「次のチャンスを待とう!」と だが、次のチャンスはもう無かった。オイルショックにより、観賞魚ブームも一瞬のうちに去り、その大男にとっても大好きならんちゅうの買い付けには行けなくなってしまったのである。
少年にとっても、夢をはたせぬまま十数年の月日が過ぎてゆくのである。

第二楽章

 6月13日、どんよりとした梅雨空の下を、白いクラウンが名神高速道路を、ビュンビュンと飛ばしてゆく。Week Dayということもあって道路は、すいている。その時、助手席の男は、不思議な気持ちで目の前を通り過ぎていく景色を眺めていた。彼は、ある自営業を営んでいるが、独立してから三年間、一日も仕事を休んだ事が無かった。2人目の子供が呼吸困難で生まれて来た時も、その後何度も入退院を繰り返した時も彼は仕事を休まなかった。いや、休めなかった。だが彼は、夢を追っていた。その夢の実現の為には、案内人が必要であり、無理なお願いをして運転席の男の定休日である木曜日が決行日となった。

 「これからは、家族サービスをしよう。」と彼は、その場限りの誓いを立てる事で、妻や子に対する感傷を吹き飛ばし、今日訪れるであろう幸福で、胸を膨らませていた。
 「遂に本物のらんちゅうに会える。」

あれから15年の歳月が流れていた。かつて美少年だった彼も、その面影をわずかに鼻に残すだけである。運転手の男は、15年前に美少年に世間の厳しさを教えた例の大男である。彼もまた名古屋の弥富を訪れるのは15年ぶりである。

 らんちゅうの買い付けに行くテクニックを大男は、説明し始めた。どうやらこれから会いに行く人物は、相当に気難しそうである。だが、かつての美少年も気難しいらしく、その人物のらんちゅうに対するこだわりが手に取るように理解できるのである。そうこうするうちに養魚場についた。午後三時である。養魚場の主人は新参者の顔を見ようともせず大男に言った。「あと一時間は魚をみることはできんなあ。」やはりへんこつ。だが2人はそんな事は、百も承知している。次にへんこつが言う。「ところで今日はどんな魚を見に来られた?」らんちゅうは四月中旬から五月上旬に孵化し、七月中旬頃から始まる色変わりまでの間を青仔と呼ぶのだが、青仔の時期でらんちゅうの大体の先行きが分かるらしい。

 「1万円位の青仔を分けて下さい。」と新参者が言うと、へんこつは困った顔をした。青仔の時期には、朝から夕方にかけてたらふく餌を与える。採食中のらんちゅうは人影があると驚いて激しく泳ぎ回り、エラから血を吐いたり、尾がすぼんでしまうそうだ。
 「二歳魚をみようか。」へんこつは白い大きな洗面器と玉網を手に取り、先に養魚場へ入っていった。(広い!)いったいいくつのたたき池がならんでいるのだろう。とにかく先が見えない。夢にまで見たらんちゅうが何万尾いるのだろう。新参者は立ち尽くしてしまい、一歩も動けなかった。どの位時間がたったのだろう。ふと気付くとへんこつは新参者の前に今まで見たこともないほど大きならんちゅうが三匹入っている洗面器を置いていた。大男が聞く。「これ、二歳ですか?」二歳といえば昨年の春に産まれたらんちゅうのはず。「二歳ですよ。」とへんこつは言う。二人は食い入るように洗面器の中の魚を覗き込んだ。思わず溜息がでる。大男が聞く「一匹おいくら位で・・・」「これが6万、これとこれは8万だな。」とへんこつは、さらっと言ってのけた。大男が新参者に目で合図を送っている。「無理するな!」「無理するな!」新参者はまだまだ社会的にもかけだしで、経済的にも余裕の無いことを、大男はよく知っているのである。しかし、ここで帰ったら明日の無い事もまた大男が15年前に新参者に教えた事だった。

 新参者は再び洗面器のなかを覗き込んだ。3匹のらんちゅうがぐるぐるぐるぐる回っている。新参者の頭の中をぐるぐるぐるぐる回っている。決断するしかない!もっと安いらんちゅうを見せて下さいとは、口が裂けても言えない。どうやらプライドだけは高いらしい。プライドは高いが脳の糖分は少ないらしく、短時間のうちに精神力を使い果たし、虚脱感にみまわれた彼は、投げやりな口調で口走っていた「この6万のらんちゅうを下さい。」

 商談が成立するとへんこつは突然饒舌になり、新参者にらんちゅうの飼い方についてアドバイスを与え、あと千円の青仔を6匹、五千円で譲った。お礼をいって先に養魚場を出た新参者は、あとから出てきた大男から五千円を手渡された。へんこつから受け取ったマージンだと言う。心優しき大男は、高速料金も昼食代もガソリン代も全て受け取らなかった。

「それより、そのらんちゅうを殺したらあかんよ。」考えてみれば、新参者は今までまともにらんちゅうを飼ったことが無かった。立派ならんちゅうを手中にできた喜びと、明日にでも6万円がパーになるかもしれないという不安の入り混じった興奮の中でこの旅は幕を閉じた。
後に潜水艦と命名されたこの二歳のらんちゅうとの出会いが、新参者の人生を大きく変えていく事になる。

第三楽章

(前編)

 梅雨が明けたばかりの快晴の中を白いレックスが名神高速をビュンビュン追い抜かれて行く。車の中には新参者の姿があった。彼はへんこつの所へ車を走らせていた。潜水艦も青仔も元気でいた。巨大な潜水艦の後を青仔がついて泳ぐ。遠くから見ると、まるでかるがもの親子のようで彼は、腰の高さにある窓からその姿を楽しんでいた。その窓を超えると玄関の上の妻ぶき屋根の上にFRPの船が不安定に設置してあった。

 日課である水換えを行なっていたある日、ふとある疑問が新参者の脳裏をかすめた。
「何かが違う!このままこの青仔達が成長しても潜水艦の様な魚にはならないのではないか?」そう、新参者の疑問はしごく当然のものだった。何かが違っていた。「色気のある当歳魚が欲しい!」

早速、へんこつ様にご都合を伺いこの日の決行となった。
名神の大垣インターチェンジで降り、道行く人に尋ねた。「弥富は何処ですか?」すると帰ってきた答えは「知らんねえ。」だった。なんとあの有名な金魚の三大産地の弥富を知らないとはなんたる無知だ。と彼は思った。また彼は人に尋ねた。「弥富は何処ですか?」「御免なさい、分かりません。」謝る必要など無かった。無知は新参者の方なのだ。岐阜県の一般人に愛知県の弥富町の場所を尋ねて答えられる訳が無い。仕方なく新参者は車を走らせた。恐るべき方向音痴である。どうやら彼はらんちゅうではなく、真珠を買いにいくつもりらしい。
半分泣きそうになりながらも彼はお腹が減り、喫茶店に入った。オムライスを食べながら彼はマスターに尋ねた。「あのー、道に迷ったのですが、弥富町を知りませんか?」マスターが聞く。「弥富町って何県?」「愛知県です。」マスターは呆れた様な顔をした。それを聞いていたある客が「弥富って、金魚の産地の弥富?」その一言で新参者は救われた。

 新参者の前にマスターが持ってきた地図が広げられた。客は皆、常連客らしい。かくして弥冨探しゲームがお客さん全てを巻き込んで始まった。ついにその中の一人が弥富町を見つけた。その瞬間、大歓声があがった。後はどういう進路を取るかの検討が始まった。かくして、新参者はようやく弥富町にたどり着いたのである。


(後編)

「じゃあ見てみようか。悪いけどこれもってきてくれんかな~。」とっても優しい口調でへんこつさんが言った。これって何?まさかこの更水がたっぷりと入った大きな洗面器?新参物は見た瞬間に(無理!)っと思った。彼は自慢じゃないが、小柄でしかもきゃしゃである。それでも学生時代は、水鳥の羽をすごい速さで叩くというスポーツに熱中していたらしいが、仕事で独立してからは願掛けとしてラケットを折っていた。

 今は、店の中で仕事をしているだけで、私から見ても彼の人生の中で一番不健康な生活を送っていた。そんな新参者の私生活などこの際、何の関係もない。気付くと、へんこつさんは、空の洗面器とタモをもって養魚場の中に入っていた。その広さに前回は不覚にも足がすくんだ養魚場についに案内してもらえるのだ。新参者は無我夢中で後を着いて行った。何十面ものたたき池がある。狭い通路はあるが、池同士のしきりは10センチほどしかない。その10センチの上を歩いていく。バランスを崩して池に落ちたら自己破産しかない。新参者の足はガクガク震えていた。ある池でへんこつさんが立ち止まった。濃い青水の中にらんちゅうの姿がかすかに見えている。へんこつさんは、タモでその中の一匹をそーっとたぐりよせてきた。何で何匹もの中から、らんちゅうを区別できるのだろう。と感心する間も無く、らんちゅうが青水とともに洗面器の中にすーと入ってきた。うっそー!それそれ!。そのらんちゅうがいいよ!。まだ七月下旬だというのにコブが鼻先からせりだし尾形も申し分の無い色気のあるらんちゅうである。ところが「うーん。いまいちだな。」とへんこつさんは一人つぶやき、新参者に見せることなくその魚を戻してしまった。
 「なんでやー!」と新参者は思った。その後もへんこつさんは池から池へと渡り歩き、魚をたぐり寄せては「××××・・・。」と独り言をつぶやき、魚をたぐりよせては「△△△△・・・。」と独り言をつぶやく事を延々と繰り返していた。どう考えてもへんこつさんは、新参者との商売を忘れてこの年の魚の出来具合をチェックしていた。その間、新参者はというとさっき見たらんちゅうの残像をずっと引きずっていた。だが重い!新参者の身体の中の乳酸値がピークに達するのを見計った様なタイミングでへんこつさんは更水の中にらんちゅうを入れて見せてくれた。

 立派な尾形とボディを持っているのだが、コブも色気も最初に青水ごしに見たらんちゅうにはかなわない。と新参者は思った。今回、当歳魚を買い付けるにあたって予め「予算は三万円。」と電話で伝えていた。素人の新参者には、らんちゅうの相場など全く分からなかった。へんこつさんが「この魚。」と言えば従うしかない。
最初に見たらんちゅうの残像がどうしても頭から離れず「最初にすくったらんちゅうはどうしてダメなんですか?」と、喉まで出かかるのだが、彼はその言葉を飲み込んだ。その一言がどうしても言えなかった。養魚場を隅から隅まで見せて頂けた喜びと、洗面器とタモを分けて頂いた喜びに満足しこの旅は終わった。だが、ある事がきっかけで二ヵ月後、また彼は、この養魚場を訪れる事になるのである。

第四楽章

夏が終わり秋風が吹き始めた頃、それは、突然訪れた。
「今日も無事に診察がすんだ。」時計はもう夜の八時である。新参者がほっとした瞬間、彼は現れた。ポメラニアンの子犬を連れている。どうやらワクチンの依頼らしい。簡単な健康診断とワクチンの接種が終わり、さあ「本当にこれで終わり。」だと思った瞬間、その男の口から意外な言葉がもれた。「自分、らんちゅう飼うとうらしいな。一寸見せてみ。」ぶしつけになんなんだこの男。それにどうして僕がらんちゅうを飼っている事を知ってるんだ?新参者があれこれ考えているとその男はもう一度言った。「ええから見せてみ。」仕方なく新参者は「あーめんどくさ。」と思いながら二階に上がり窓を乗り越えて待合室の屋根に降り、二ヶ月前に買った当歳と潜水艦を洗面器に入れて彼に見せた。

 潜水艦を見た瞬間、明らかその男の顔色が変わった。「ええ魚(ウオ)や。なんぼで買うた?」「六万です」「六万か。六万やったらわしなら買わんな。」次にその男が言った「こっちは当歳か。洗面器には多分乗るけどたいしたウオと違うな。」新参者は思った。「この男は何を言っているのだろう?洗面器に乗るとか乗らんとか?」新参者は聞いた。「洗面器って何のことですか?」この男(らんちゅうの事をウオウオと言うので以降はウオさんと命名)は説明してくれた。地元にらんちゅうの会があって毎年十月の第3日曜日に品評会があるらしい。
その話を聞いて新参者はへんこつさんのある言葉を思い出した。

 潜水艦は昨年の日らんで前頭に入賞していたらしい。新参者は当時、らんちゅうを飼える喜びに満足していたのでその時はウオさんの品評会の話を聞き流していた。ただ日を追う毎にウオさんの言葉が気になりだした。だんだんと品評会に参加したくなっていった。そして品評会に参加する決心を固めた。「でも当歳に関しては私同様にウオさんも大したらんちゅうでは無いと言っていたな・・・。」ただ参加する以上ベストを尽くしたい。その時、へんこつさんの色気のある例のらんちゅうの姿が脳裏をかすめた。早速へんこつさんに電話を入れ今度は六万位で当歳魚を別けて頂けないかと打診するとへんこつさんは快諾してくれた。早速、弥富に伺うとへんこつさんは、予め、魚を用意してくれていた。少し小ぶりだがその色気に新参者は驚いた。へんこつさんが言う。「本当だったら十万と言いたい所だけど、あんただったら六万で分けてあげるよ。」有り難かった。へんこつさんが天使に見えた。

 ちょうどその時、へんこつさんとご同業の方がへんこつさんの今年の魚の出来具合を伺いに来ていた。「今年の出来はどんなかな?」「丁度、いいとこに来られたね。この人にこの魚を分けてあげるんよ。」ご同業の方がちらっと魚を見て言った。「この魚が出せるんだったらへんこつさん所の今年の出来はよっぽど良いねえ。」へんこつさんは満面の笑みである。へんこつさんの詳しい話は後に譲るとしてとにかく新参者の魚は揃った。
次回、いよいよ品評会なるものに出陣である。

第五楽章

(前編)

ドキドキ、ドキドキ。
いよいよ品評会当日である。新参者はかなり緊張していた。新参者とは対照的に潜水艦達は袋に詰められてもリラックスしている。受付は十時と聞いていた。会場は片道30分の距離であるが方向音痴をようやく自覚し始めた新参者は、九時に家を出て車を走らせた。それでも二回も道に迷い会場に着いたのは十時五分前であった。新参者はあせっていた。車を止め、急いで袋を降ろした。会場には大勢の人がすでに集まっていた。

 「すみません。まだ間に合いますか?。」新参者の目は血走っていた。皆、「誰だこいつ。」みたいな目で新参者を見ていた。受付の人に「飛び入りなんですけど。」と話しかけると、お互いに「おやっ?」っという顔をした。そう、新参者の数少ない患者さんの中でも最近ご無沙汰していたF井さんであった。どうやら遠くへ引っ越しをしたそうだ。新参者は知り合いがいてくれてほっとした。でも、どうやら参加する為には紹介者が必要らしい。新参者がウオさんの名前を出すと簡単に参加を認めて貰えた。「ただし。」とF井さんが付け加えた。

「飛び入りの場合、東大関になってもトロフィーはお渡し出来ません。まあ、そんな事は有り得ないと思いますが。」その話を聞いていた周りの人からどっと笑いが漏れた。

 新参者はと言うと、まず東大関の意味が分かっていない。でも皆が笑うので、とりあえず一緒に笑った。小一時間ほどたってようやく審査が始まった。審査は当歳から始められた。審査のテーブルの上には大きな洗面器が三つ並べられていた。審査員の邪魔をしなければ自由に審査風景を見ることが出来たが、新参者は小柄なのでよく見えない。

 一番後ろの洗面器から次々と魚溜めに魚が戻されていく。新参者はドキドキしながらその魚たちを見ていた。それも一段落した。新参者は一番後ろの洗面器の中に自分のらんちゅうを探した。三十匹くらい泳いでいたがようやく見つけることが出来た。いたいた。三万のらんちゅうはそこにいた。次に新参者は色気のある例のらんちゅうの姿を探していた。次の洗面器にもいない。そして一番前の洗面器の中を見ようとするが人の陰に隠れて見えない。ただその洗面器の中には数匹のらんちゅうの影しか見えない。新参者の鼓動が高くなって行く。新参者はもう一度、後ろ二つの洗面器の中を探してゆく。なにしろたくさんのらんちゅうが泳いでいるのだから見落としもあるかもしれない。でもやはり見つける事が出来ない。新参者は何とか一番前の洗面器を覗ける位置まで潜り込んだ。すると「な、な、な、なーんと!」たった五匹しからんちゅうがいない洗面器の中を例のお色気さんが力強く、ぐいぐい泳いいるではないか。新参者の心臓の鼓動が一気にピークに向かってゆく。

 最終審査は意外に手間取っている。「もう限界だ。心臓が持たない。」と思った瞬間、審査員が魚係の持つバケツの中に一匹のらんちゅうを入れた。新参者の魚では無い。その瞬間に彼の緊張の糸は切れた。
頭の中が真っ白になり洗面器を取り囲む人の輪から離れ、しばし休息を取っていた。


(中編)

「新入会員さん。魚見ないの?」その声で新参者は、我に帰った。どの位ボーとしていたのだろう。会場ではすでに二歳魚も審査が終わり親魚の部の審査が行なわれていた。まだ少しふらふらしながら当歳魚の一番前の洗面器を覗いた。「あれ?何で?」なんと、お色気さんが一番前の洗面器の中を泳いでいた。洗面器の上の札に東大関と書いてあり隣の洗面器の札には西大関とかいてあった。「そうか!この二匹が一番なんだ。」新参者が審査中の洗面器を離れてから次に選ばれたのがお色気さんだったのか。彼はその時はそう思っていた。

 続いて新参者は二歳の洗面器の一番前を覗いた。なんとそこには潜水艦がいた。札には西大関と書かれてあった。不甲斐無い飼い主に比べなんたる堂々とした姿だろう。その姿を見て急にうれしさが込み上げてきた。その時、新参者は今まで姿を見せていなかったウオさんを見つけた。

「ウオさん。この前見てもらった二歳魚、一番ですよ。」するとウオさんはうんざりした様な顔をして言った。
「あのな。このウオは西大関やろ。東大関が一番なんや。」な、な、なーんと。潜水艦は二番である。ということは、お色気さんは一番ということになる。「ウオさん。僕の当歳、一番なんですけど・・・。」ウオさんが血相を変えた。すぐに当歳の東大関を見た。「このウオ、わしがこの前見たウオと違うやろ。」その通りである。そういえばウオさんに見てもらった当歳はどうなったのだろう。

 当歳の洗面器を前から順番に見ていった。だがなかなか見つけられない。なんと最後の洗面器にかろうじて乗っていた。この魚もギリギリの所で頑張ってくれたんだ。うれしかった。新参者はすぐに会場を離れ、公衆電話を見つけ大男に結果を報告していた。「あのね。・・・・・。」大男は「よかったね。」と祝福してくれた。


(後編)

「うーん。」・・・・「なんでだろう?。」
昼食休憩を済ませた新参者にやっと普段の冷静さが戻ってきたようだ。彼は当歳魚の優等魚をじっと眺めている。西大関のらんちゅうにしても立行司にしてもお色気さんとは全く違った魅力を持っていた。この魚達の優劣をどこでつけるのだろう。そんな事を考えている彼の隣にある人物がしゃがみこんだ。「新入会員さんはじめまして、会長のOです。新入会員さんのこの魚は現時点では間違いなく東大関です。当歳むきのいい魚だと思います。でもねえ・・・。二歳や親向きではないと思いますよ。」それを聞いた新参者の反応はとい「?????。」であった。だがこの予言は正しかった。

 この会長さんについては後に詳しく述べるかもしれないが、とにかくすごい人である。いろいろなお話をさせて頂き、後日お邪魔させて頂くことになった。その後、ふと、目を二歳の部に移すと潜水艦の周りに人だかりが出来ていた。そーと近づいて聞き耳を立てると「この魚、仔出しが良さそうだねえ。」などと話している。「仔出しがいい?」確かに潜水艦は雌だが、(仔出しがいい)とはどういう事だろう。たくさんの卵を生むという事だろうか?新参者は聞いてみた。
「あのー、仔出しがいいとはどういう意味なんですか?」すると、皆さんは親切に教えてくれた。
「この魚から仔を引くといい魚が出来る。という意味だよ。」まるで小学生に教える様に教えてくれた。
そうこうするうちに楽しい時間はあっという間に過ぎた。いろんな人にお話も聞けて本当に有意義な時が過ごせた。さあ、魚をしまおう。と、其の時である。一人の若者(新入会員と同年代かな?)が真剣な顔をして新入会員に声をかけた。「あのー、東大関の兄弟はいないのでしょうか?」新入会員は思わず辺りを見渡した。
だがいくら見渡してもいるはずがない。新入会員には何故そんな事を訪ねられるのかを理解できなかった。
だが徐序に理解できた。彼はお色気さんのようならんちゅうを作りたかったのだ。新入会員は「この魚は買ってきたものだから兄弟はいない。」と説明し詫びた。

 その時の残念そうな青年の顔を見て新入会員もすごく悲しくなった。「そうか。買ってきたものでいい成績を残してもだめなんだ。自分で作り上げないと・・・。」潜水艦の仔出しの話といい、この青年との話といい、この日の品評会が新参者を仔引きへの挑戦という誘惑に導いていった。その先に、「らんちゅう地獄」の世界が待っている事に、この時、彼は、まだ気付いていなかった。

アクセス


大きな地図で見る
■所在地
〒653-0855
兵庫県神戸市長田区
長尾町1-7-14

■最寄り駅
山陽電気鉄道
神戸市営地下鉄 板宿

お問い合わせ 詳しくはこちら